主体的と客体的
「みる」と「きく」
能楽師の安田登さんが著した「あわいの力」という本に面白いことが書いてありました。顔の感覚器には目口耳鼻とありますが、このうち目と口は「みる」器官です(目で「見る」、舌で味を「みる」)。鼻と耳は「きく」器官になります(耳で「聞く」、鼻が「利く」)。そして「みる」は主体的で「きく」は客体的です。つまり目を閉じれば見たくないものは見ないで済むし、口を閉じれば味見しないで済みます。対して耳と鼻はどう頑張ってもふさぐことはできず、きくことは客体的にキャッチする感覚ということになります。
「みる」の過剰摂取
ここで感じたことは現代人は主体的である「みる」ことに偏りすぎていませんか?ということです。視覚情報というのは人間にとって重要な感覚なのでそれに頼ること自体はいいのですが、それにしても現代は見なくてもいい情報が溢れていますよね。視覚情報を利用するというよりも振り回されているように感じます。味をみるに関しても日本を含めた先進国は食物が飽和状態にあり、必要以上に食べ過ぎてしまうことが多い印象です。つまり「みる」という行為は主体的であるがゆえに過剰摂取してしまっているのではないでしょうか。結果的に過度な「みる」が心身に不具合をきたしているように思います。
「きく」ことの大切さ
こんな時代だからこそ客体的な「きく」ことにフォーカスしてみるのはどうでしょうか。近年世界的に企業が取り入れているマインドフルネスや瞑想では目を閉じ耳から入る音をただ受け取るといった方法があります。香りを感じる嗅覚は脳の記憶を司る部位に直接信号を送ることができます。なんかこれだけでも「きく」ことって心身にとって大事そうに感じませんか?主体的にがっついて過剰摂取するよりも客体的にゆっくり受け取る。これも余裕ですね。